生涯を知る11のエピソード

松澤宥の「ごた*」な生涯について、11のエピソードでご紹介します(*諏訪の方言で悪戯っ子な、やんちゃなというような意味)

1. 1922年2月2日午前2時生まれ(1922年)

1922年2月2日午前2時下諏訪生まれ。生涯を通じ作品やパフォーマンスで 22、99など数字(とくに数字の繰り返し)にこだわりを持つ。 2222年人類消滅を予言。2022年2月2日に生誕100年を迎え、長野県立美術館の大回顧展もその日から。

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2. 戦争時代と2度のUターン(1940年代〜50年代) 

諏訪中学(現諏訪清陵高校)卒業後、大学時代(早稲田大学建築学科)を第二次世界大戦下で過ごす。学徒動員により中学同級生の半数近くが戦争により亡くなった。戦後、下諏訪に戻り地元高校の数学教師に。(1度目のUターン)その後フルブライト交換教授として米国に2年間滞在。帰国後、東京での文化人生活もあったはずだが、なぜか再び下諏訪に戻って(2度目のUターン)30年以上高校教師をしつつ、アートを発信し続ける。

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3. 自宅をアートに?「虚空間状況探知センター」と「プサイの部屋」(1950年ごろ?〜)

下諏訪の自宅を「虚空間状況探知センター」、そこにある自室兼アトリエを「プサイ(ψ)の部屋」と呼ぶ。「プサイの部屋」の命名者は美術評論家瀧口修造。プサイの部屋には夥しい数のオブジェやグラフィックがディスプレイされ、唯一無二の空間、まるでひとつの作品のように。噂は広まり、多くのアーティストや評論家が世界中から下諏訪訪問。

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4. 1950年代の「マルチメディア」フェス@諏訪(1950年〜51年)

諏訪で「RATIの会」という前衛アーティストコミュニティを1950年に設立。詩、絵画、彫刻、写真、音楽、バレー、オブジェ、ファッションなど美術の領域を超えたクロスカルチャー・マルチメディアな最先端イベントを2度実施。出品者には岡本太郎、安部公房など時代を代表するアーティストたちも。

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5. 真夜中の声「オブジェを消せ」(1964年)

1964年6月1日真夜中に「オブジェを消せ」との声を聞き、三日三晩考えたあげくにそれ以後絵画、オブジェなど今までの美術制作を止め、文字だけを使って表現しようと決意。伝説的な「観念美術宣言」。以後「物質消滅」「人類消滅」「万物消滅」「消滅」がテーマに。

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6. 仲間たちとの「ツリーハウス」と夜を徹したフェス(1970年代)

仲間達と下諏訪山中に「泉水入瞑想台」(せんすいいりめいそうだい)というツリーハウスを1971年に作る。そこでアーティストたちと「音会」(おんえ)「山式」(やましき)など伝説のフリーパーティ。自由で濃厚でフラットな結びつき「フリー・コミューン」は、松澤と仲間たちの真骨頂。

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7. 世界的アーティストがわざわざ下諏訪訪問(1975年)

イギリス現代アートのスーパースターギルバート&ジョージと知り合い、1971年松澤はロンドンの彼らの家を訪問。1975年ギルバート&ジョージは東京での日本初の個展のあと、京都経由で、わざわざ下諏訪来訪し、松澤家で一泊。有名なスーツ姿で下諏訪の街中と山中を歩き、瞑想台、プサイの部屋へ。

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8. 諏訪のバウハウス?「美学校諏訪分校」(1973年〜)

有名なアートの私塾「美学校」(本校は東京神田)の諏訪分校を1973年開講。 「最終美術思考工房」で講義。他にも小杉武久、中村宏、小畠広志など、ぶっとんだ教師たちによるアート教育が諏訪で行われた。

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9. 国際的活躍 〜 人類の危機の預言者?(1970年代後半〜)

近日中に公開予定

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10. 超心理学者?宗教家?科学者?(1950年代〜)

近日中に公開予定

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11. 木遣り大好き!(ずっと)

展覧会オープニングなどで周りから頼まれると「木遣」を披露!作品の背景には七島八島や御射山など諏訪信仰の重要ポイントが。お酒は下諏訪地酒「御湖鶴」。松澤宥は根っからの「諏訪人」だった。

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